会員の先生

 

大嶋 宏徳

 

 

プロフィール

大嶋 宏徳 (おおしま ひろのり)

昭和60年3月27日生まれ
栃木県宇都宮出身

柔道整復師
鍼灸師
あん摩マッサージ指圧師
日本整体協会インストラクター
日本整体協会臨床センターセンター長

現在宇都宮で開業及び東京都日本橋にある日本整体協会臨床センターで難病の方を中心に治療。

 

日本整体協会臨床センターの大嶋宏徳です。
日本整体協会臨床センターのホームページをご覧頂きありがとうございます。

私が現在(いま)の治療家になるまでのお話をさせていただきます。

 

「人生を変えた治療家との出会い」

私は10年間東京都のグループ整骨院で勤務し本院院長を経て、
現在、日本整体協会臨床センターで施術を行っています。

以前の私は筋肉の痛みや関節の痛みがある患者様を中心に施術をしていました。
様々な治療法や技術を学び、臨床経験も多く積み自信を持ち始めた頃、
壁にぶつかることに・・・
自分の技術・知識では改善出来ない内科的な症状の患者様が増えてきたのです。

その時偶然なのか必然なのか難病治療を得意とする長谷先生に出会い、
現在の治療の軸となるクラニアル(頭蓋骨)・内臓・エネルギーテクニックなど自分の治療家人生を変えるほどの技術や知識を学ばせて頂きました。
今思うと、長谷先生に出会えたことは偶然ではなく必然だったのだと確信しています。

 

「現在の私」

現在の治療は、以前と比べ大きく変化し、クラニアル(頭蓋骨)・内臓・エネルギーテクニックで、痛みの減弱は勿論、内科的症状を始め、アトピー・不妊症・婦人科疾患・精神疾患・原因不明といわれる症状から癌の方まで今まで改善出来なかった患者様にも喜んでいただけるようになりました。

では、何故現在の私が様々な方を治療する事ができ、結果が出せるようになったのか・・・・

それは、

時代に合わせた治療をしているからです。

 

「時代に合った治療とは」

例をひとつあげさせていただきます。

現代社会において暴飲暴食、偏った食事、睡眠不足、家庭環境・職場環境でのストレスや悩み、大気汚染など体に負担がかかるケースが多く見られます。

食生活の乱れにより、血液(体液)の質・循環に影響が出ます。
睡眠不足により、ホルモンのバランスが崩れたり、ストレスや悩みが続くことで自律神経の調節が乱れたりします。

その負担がかかる中で割合を多く占めているのが内臓です。
私たちの内臓は、血液の循環・ホルモンバランス・自律神経の調節など様々な働きをしています。また、内臓疲労・内臓の負担・位置異常(ゆがみ)により日常生活での疲れや痛みなど様々な問題が起こります。

例えば右肩が上がらない場合、肝臓を施術すると上がるケースや、腰痛の際に腎臓を調整する事で腰痛が改善されることが多々あります。

現代社会、様々な問題で内臓に負担がかかります。体の中に負担が蓄積されれば、体の外(筋・骨格)にも影響します。これからの時代、体の中から治療することが必須になってきます。

時代は進化しています。
それに伴い病気も昔とは違い進化しています。
その為、様々な方の治療を行う為には「治療」も時代に合わせて進化することが、
必要不可欠だと考えています。

 

「健康になる」

私たちの治療の目的は、「健康」に導くことです。

痛みとは健康(ゆがみや負担がない)な状態から疲労・負担が蓄積した結果、体から発するサインのひとつです。

健康な状態に戻すことで、サインが消え痛みは自然となくなります。

腰痛も腰を治療するのではなく、健康にすることで腰が痛む必要性がなくなり、自然に痛みがなくなります。

それは、アトピー・不妊症や他の症状も同じです。
アトピーの方はアトピーを治療するのではなく、アトピーが必要のない体へ導くように治療します。

不妊症の方は健康にする事で妊娠しやすい環境を最大限に引き出します。

健康になることで、体質が変わります。
その結果、症状が消えるだけでなく再発防止にもつながります。
症状がなくなるだけでなく、同じ悩みを繰り返さずに快適な日々を過ごしていけることが、
真の健康であり治療のゴールだと考えています。

 

「最後に」

今あなたが
改善の方法が分からない。
治療法が見つからない。
何を行っても変わらない。
そのようなことがありましたら、一度ご相談ください。
臨床センターで、あなたの悩みを解決出来るかもしれません。

 

 

佐藤 龍平

 

 人には人生の転機というものに遭遇することがあります。思いがけない事件、尊敬する人との出会い、大切な人との別離。ドラマや漫画、小説を読んで、人生が一変する人もいるでしょう。私は治療家の道へと進みました。今の私があるのも、やはり人生の転機があったからです。私の場合、それは二度ありました。

 

最初の転機

 私の場合はそれが就職も決まり、これから社会に船出するはずだった22歳の時に訪れました。前日、私はお酒を飲んで酔っていたことは記憶していました。そして気がついたら、私は病院の集中治療室ベッドの上でした。隣には知らない老人がベッドが力なくベッドに横たわっていました。老人の様子は健康そうには見えません。ですが、老人から見たら私の方がよっぽど健康には見えなかったことでしょう。私は足を固定されていました。串のようなものが突き刺さっています。あとで知ったのですが、これは折れた骨がおかしな形でくっつかないように引っ張るものでした。それを認識すると思い出したかのように痛みが襲ってきました。

 ビルの4階から落下した。看護師さんは私にそう説明してくれました。大腿骨顆上骨折、脾臓損傷。これまで他人ごとだったよく分からない言葉が伝えられました。命にかかわるほど重症、私はそう理解しました。

 こういう状況になっても、人間とは不思議なもので私の頭に浮かんだのは「就職先の人に知られたくない」ということでした。

 

「もう来られていますよ」

 集中治療室に入ってきた本当であれば上司となるはずだったその人の顔に、最初に浮かんだのは安堵でした。彼からしたら見込んで採用したヤツが厄介事を…と思うはずなのに、だけど彼はまずは私の無事を見てホッとしたような表情を浮かべていたのです。

 申し訳ないと思いました。そう考えた時、私は頭が真っ白になりました。激情にかられて号泣しました。正座して迷惑をかけた色んな人に謝りたいとも思いました。だけど私には二度と正座はできないかもしれない状況でした。ようやく私は大怪我をしたのだという実感を得たのです。

 リハビリには時間がかかる、就職する予定の日には到底間に合わない。私は内定を取り消されました。身体が弱ると精神も弱るものです。体力には自信がありました、精神力だって当時は若く人並み以上のものがあったと自負していました、それが無残にも崩れてしまい、「いっその事…」と最悪の選択を考えることすらありました。これが私の人生の最初の転機でした。

 すべてが白紙に戻り、これから何をするか分からなくなった時、私はリハビリの時の経験から治療家の道はどうかと考えました。これはリハビリの手法に感動して…というものではなく、私ならもっと上手くできるのではないかと思ったからだったのです。今思えば、当時はまだ若く無知であったのは事実でしょう。素人が何をバカなことをと思います。ですがスタート地点が、今広く行われている手法を学びたいではなく、もっと良い方法があるはずだということだったことは、今の私に至る上で欠かせない転機だったと思います。

 

二度目の転機

 それからはとにかく勉強と治療の日々でした。はじめは整体、カイロを学びました。その後夜は柔道整復師の学校に通い、昼は接骨院で修行。整形外科にも行き外傷の治療も学びました。毎日治療治療治療、骨折が転機だった為か、外傷の整復(骨つぎ)を中核にした技術を習得していきました。オリンピック選手のトレーナーも経験しました。新しい症状、難しい症状、私ならもっとできるはずだと10年間、勉強と治療の日々を送ってきました。

 そして、独り立ちできるだけの技術と知識を習得したと考え、私は独立したのです。開業したときには両親から借金もした。だからこそ失敗はできない、成功させて余裕ができたらたっぷり親孝行しよう、これまで迷惑をかけた分しっかりとお礼を言おう。この時は短い時間なら正座もできるようになっていました。結婚も近い、孫を抱かせよう、親子三代みんなで一緒に食卓を囲もう。

 だけどすべて叶いませんでした。母は癌に侵されていたのです。余命1ヶ月。あと2ヶ月後に控えた結婚式まで持たず、母は逝きました。

 治療家を名乗りながら、院を構えながら、自分の大切な母親すら救えませんでした。当時の私にとって「癌」は自分の治療の範囲外、すべて医者に任せていました。その結果、母のために何もできず、母は旅立ってしまった。癌だから仕方がない、寿命だった、天命だったんだ…なんて納得できるはずもありませんでした。母は57歳でした。死ぬには若すぎるではありませんか。

 悔しい、情けない…私は酷く落ち込みました。これまで苦労をかけてしまったことをようやく返せると思ったのに、母のためにやってあげたかったことはいくらでもあったのに。幸せな結婚式を見せてあげたかった、孫を抱かせてあげたかった、私に教えてくれた沢山のことを孫にも教えて欲しかった。すべてもう叶わない夢へとなってしまいました。

 そうした気持ちを引きずりながら5年の月日が経ちました。あの時の悔しさは5年という月日がたっても消えることはなく、何かできることがあったのではないかと悩み続けていました。

 骨格の歪みを治し、筋の張りを取る。これだって立派な治療です。そうは思っても、体の中、体質や病巣を消せるわけではありません。母親だって救えませんでした。今の治療が枝葉を整えるだけのものにしか過ぎないとすら感じていました。治療家としてぶつかった分厚い壁です。あまりに分厚くて、そして近しい人たちは誰もこの壁を越えようとしていなくて、私は今、持っている技術がすべてなのだと自分を納得、というより妥協させるしかありませんでした。

 そんな時、癌を完治させるという柔道整復長谷先生と出逢ったのです。

 大切な人を癌で亡くしていた私にとって、それは筆舌しがたい衝撃でした。私にもできることがあったかもしれない。度肝を抜かれたと言ってもいい。私は迷わず長谷先生のセミナーをすべて受講しました。それだけの価値がこの邂逅(かいこう)にはあると思ったからです。

 これが私の二度目の転機。一度目の転機が治療家を志すための転機であるならば、これは治療家として、これまでできなかったことをできるようになる、ステップアップのための転機でした。

 

転機の前後

 一度目の転機の時は漠然としていた人生が自分の環境の変化に伴って変わってしまい、ただひたすら前に進むしかありませんでした。振り返る余裕もなく、あの頃は友人と遊んだ記憶もあまりありません。前に前に、治療家として一人前になるために進み続けていました。では二度目はどうだったのか?

 学部で学び始めてから、世界が広がるのを感じました。自分がこれまでやってきた治療の先には、まだまだ知らなかったこと、その奥深い世界が広がっていたのです。本当の治療家になるため、初心に帰って勉強を続ける充実した日々を送れました。

 治療家として最初は私と受付の2人だけでスタートしました。まず1日50人、1年後には1日100人を超え、150人の患者さまを治療することができました。スタッフの入れ替わりの激しい時期もありましたが、今では良き仲間(スタッフ)に恵まれ、来院者数も右肩上がりに増え続けました。

 それに長谷先生と出逢ったことで自分の診れる範囲が格段に広がりました。今は接骨院については他のスタッフにはできない難病治療に専念することにしました。秒単位のスケジュールをこなす長谷先生から時間の使い方も教わることができたおかげで、スケジュールは過密ですが、それでもオーバーワークにならず以前よりたくさんのことができるようになりました。

 この出逢いがあったからこそ、私は真の治療家へと変わることができたのです。

 

治療家の育成

 自分が限界だと思っていた世界。ここが治療家佐藤龍平の世界だと、そう思い込んでいた狭い世界。それが尊敬できる人との出逢いによって、世界はずっとずっと広いのだと気が付かされた体験、興奮。この視界と感覚をもっと多くの人と共有したい。私はそう強く感じるようになりました。
 また、母のように苦しんでいる人へ、本当の健康・幸せを提供するためには、私の二本の腕だけでは到底足りない。もっと沢山の治療家が必要だ。そう考えるようになりました。
 患者さんに施術できるのは自分だけ、患者さんを救えるのは自分だけ、健康を害し、かつてビルから落ちて大怪我をした私のように肉体的な怪我から精神的にも追い詰められてしまっている患者さんに、そう確信を持って言い切れる治療家を目指す。
「潜在能力は相応の刺激で起こしてあげないと、起きることはない」「人は人によって磨かれる」
 そのための場所がこの学部にはある。学部は自分の仕事のことを志を持てる仕事、声高らかに志事と言えるようになるための場所なのです。

 

最後に

 私の好きな言葉は「邂逅(かいこう)」です。邂逅とは偶然ではない。私が長谷先生と出逢ったのも、あの時治療家の限界について悩んでいた私の縁が引き寄せたのでしょう。一言二言言葉をかわして別れる人と、自分の人生に影響をあたえるほどの邂逅との差は、偶然などではなく必然的な意思がある。

『人は出逢うべき時に出逢うべき人と出逢う。出逢いは、最良で最高のタイミングにやってくる。一瞬遅からず早からず…』

 手技の経験者かそうでないかは関係ありません、本当の治療家を目指すという私と同じ志を持つ、同志たちと出逢う。

 そんな同志たちに私は精一杯、自分の持っている知識、技術、そして感じた興奮と視界を共有したい。

 これから新しい邂逅があることに感謝します。

 合掌。

 

赤塚 満嗣朗

 

治療家を志した理由

私が治療家の世界に入ったきっかけは、学生時代の体験です。私は学生時代、進路のことなどストレスで体調を崩したことがあります。耐え難い頭痛などさまざまな症状に悩まされました。関節症や自律神経的な症状、中でも特に頭痛は、本当に耐え難いほどの辛さで、寝ても起きても酷い痛みが続き、なんとか解放されたいと、色々な病院を行脚していたのですが良くならず、本当に苦しい状況でした。今思うと、病院での他の症状の治療の際にバランスが崩れて頭痛が起きていたのかもしれません。
病院では良くならなかった頭痛でしたが、いろいろ治療の方法を探し最後に整体に行くことで良くなりました、そのことが最初のきっかけです。

元々私は、小さいころは身体が弱く色々な症状に悩まされた経緯から高校生の頃は医者になりたかったのですが、大学は別の道へ進んでいました。しかし、その道はやりながらあってないなと感じていました。頭痛などいろんな症状に悩まされていたのはこの時期です。進路について悩んでいた理由にも、なろうとしている未来の自分への違和感がありました。
そこで身体を良くしてもらい、やっぱり自分はこういう道に進みたいと思ったのです。
私は進んできた道を変え、ある整体の先生の元へ弟子入りしたのです。

 

弟子入り、独立、障壁

弟子入りしたあと10年間ほど、その先生のところで勉強しました。ただ、そこで学んだのは筋肉に対するものでしたので、独立したあとで解決できない多くの問題と向き合うことになりました。そういう問題に対しても自分にできることは無いか、独立後も勉強を続けていました。自分の中で、こうしたら良くなるんじゃないかというイメージはあったのですが、それがすぐに結果につながることはなく、今のままでは多くの人を救える治療家とは言えないと感じていました。
そうした中、長谷先生と出会い、ここなら自分が求めている治療ができると直感したのです。

 

長谷先生と出会って

長谷先生の教えが私には必要だと感じたのには直感以外にも理由があります。当時、私の家族が内蔵を悪くしており、治療家でありながら当時の私は何も手が出せませんでした。家族を守るためにも今のままじゃ駄目だと強く感じたのです。
長谷先生の元で内蔵クラニアルやエネルギー治療の勉強をし、そして患者様へ実践したときに、これまで手の出しようがなかった患者様に対しても改善できることを実感しました。
家族に対しても、子供が筋肉にも骨格にも関係のない、例えば身近なところですと風邪を引いた時にも対応することができ、家族を守れる範囲がずっと広くなりました。

 

現在

私のできることが増えた要因は、例えば人が病気になるときに、なぜ病気になるのかという背景、答えを知ることができたことでしょう。

長谷先生に出会う前、整体に限界を感じていた時期は食事の勉強や心の勉強で整体でできない範囲をやろうとしていました。しかし、この頃の私はまだ身体に対する概念、理解が甘かったと言わざるを得ません。
整体というと筋肉と骨格というイメージですが、生きている人間は頭も使う、内蔵も使うとトータルで見なくては症状に対して的確な改善はできない。臨床センターに入ったことで、それらすべてを見れるようになったことで、患者様の原因をしっかりと見つけることができるようになり、原因からどういう施術が必要なのかを判断できるようになりました。
治療家の仕事とは患者様を健康に導くことです。生活環境のこともそうですが、は患者様ご本人の持っている自己治癒力以上の効果をあげることが治療家がやらなければならない役割だと私は考えるのです。

医療機関は充実しているように見えても、医療では問題ない、あるいは医療ではこれ以上無理だと言われるような症状は多くあります。この時患者様に別の選択肢、解決できる方法が実は西洋医学の他にまだあるのです。それを知らない方に、解決できる道があることを知ってほしいと思っています。
患者様が症状から完全に解放され、再発に怯えることもなく自分の人生を満喫できるようにすることが、治療家が最終的に目標にすべき地点です。
そのことを多くの方に知ってもらい、そして施術をより多くの症状に悩まれている患者様に提供することが、私の治療家としてこれからやっていくべきことだと感じています。

 

大橋 一也

 

「一度逃げた症状からは一生追われる」

 この言葉は私の師匠である長谷先生から教えられた言葉です。2期生として学部に入った私が長谷先生から頂いたこの言葉は、それからずっと私の頭に残っていました。病気、症状というものは甘いものではない、枝葉を整えるような逃げの治療では、一生症状に追われることになる。この言葉があったからこそ今の自分がある、そう思います。

 

治療家を志したキッカケ

 私という人間は、生来あまり過去をくよくよと考えない人間でした。これからもそうだと思います。そんな私が治療家を目指した理由の最初と一歩は、母が椀骨遠位端部骨折(コーレス骨折)をしてしまったことでした。母の手首が不自然な方向に曲がり、幼い私はその様子に強い恐怖を憶えました。痛いのは母なのですが、見ている私にも痛みが伝わってくるようでした。思わず大泣きしてしまって、それどころではない母や周囲の人を困らせてしまったことを憶えています。

 母の骨折は全治2ヶ月とのことでした。母の手料理は2ヶ月間お預けです。幼い私にとっては大きな問題です。それを接骨院の先生が1ヶ月で治療してしまいました。1ヶ月も早く私は再び母の手料理を食べることができるようになりました。子どもが大きくなったら、おまわりさんになりたいというのと同じような感覚ではありましたが、このときが治療家という道を意識し始めたキッカケでした。

 中学、高校、大学で私は柔道を続けていました。充実した時間だったと思います。攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養する。技術を通じて身体と心の使い方を学ぶ。古来から伝わる日本武道の精神は青春の日々を柔道に費やすのに十分な魅力を持っていました。とはいえ、柔道はルール化されたスポーツであると同時に、相手と組み合い投げ合う武道です。怪我をしてしまうことも何度かありました。

 大学三回生の時、私は膝関節内側側副靭帯断裂という大怪我をしてしまいました。外科手術も経験することになりました。整形外科のドクターには「一年間は柔道の試合には出れない」と言われてしまいました。一年経てば大学四回生、その間のブランクを取り戻すのに必要な時間を含めれば、もう大学柔道での活躍は無いと宣告されたようなものでした。中学から続けてきた学生柔道の最後がこんな形で終わってしまうのは不本意でした、とはいえ当時の私は治療家ではなくただの学生、私自身にはどうすればいいのかという知識はありませんでした。その時通った整骨院の中で、とても腕の良い柔道整復師の先生と出会い、一年は完治しないと思われていた怪我を無事完治することができました。再び試合に出られるようになり、学生時代の最後を飾ることができました。

 この時の体験が、私に治療家の道を志させることになったのです。

 

治療家への道を歩みだしてから

 大学四回生のときに柔道整復師の専門学校を受験したのですが、不合格でした。残念ではありましたが、このときカイロプラクティックというものがある事を知り、まずはそちらをと迷わずカイロプラクティック専門学校にてカイロプラクティックを学びました。そして25歳の夏に、栃木県下野市に「大橋整体院」を開設。学んだことを早速患者さまに施術しました。カイロプラクティックのみではやれることも限られているのですが、それでも自分のできることで患者さまの症状を取り除こうと努力しました。

 27歳の春に念願の柔整学校、東京柔道整復専門学校に入学することができました。新しいことを学べる日々に毎日が興奮と驚きの連続でした。

 その当時、治療家たちの夢を語ろう会というものがありました。色々な方が、自分がどんな治療家になりたいのか、治療家とはどうあるべきか、治療家に対する自分の熱い気持ちを語っていました。

 そんな中、一人の治療家の先生が話してくれた言葉を今もはっきりと憶えています。とても印象的な言葉でした。

 

「竹ってどんなイメージがありますか?「強い」「しなやか」「まっすぐ」こんなイメージがある竹ですが、こんな風に成長します。
数年間は全然伸びず、数年後には一気に伸びるんです。
じゃあ数年間は何も変わっていないのでしょうか。そんなことはないんです。いったいどこが成長しているのでしょうか。数年間は「根」が成長しているんです。そして、しっかりと根を張ることで、一気に伸びていく。根がしっかりしているから強くてまっすぐでしなやかな竹になると…
人は目に見える部分で判断してしまいがちです。
見える部分がなかなか成長しない、見える部分を気にするあまり、見えない部分をおろそかにする。
私は見えない部分を意識しています!
今の私は「根」が成長しているときです。見えない部分の成長が、見える部分を変えるのではないでしょうか…。進化するときっていうのは、カタチはあまり変わらない。だけど、見えない部分がかわっている。これがホントの進化だと思います。」

 この言葉が治療家とは哲学であるというということを意識した原点かもしれません。この言葉があったからこそ、長谷先生の哲学へと自然に繋がった。木を見て森を見ずに、何事も成し遂げようはずがない、そう思ったのです。

 柔道整復師になってからは東京都豊島区で新たに整骨院を開業しました。できることが格段に増え、充実した日々を過ごしていました。そして33歳の時、柔道整復専師専科教員免許取得し、東京柔道整復専門学校専門学校へ今度は教員として戻ってきました。
 また柔道も続けており、36歳のときには当時の監督をなさっていた矢嶋監督からの勧めで帝京大学女子柔道部コーチ兼トレーナーとして2年間生徒たちを教えました。また接骨院へレスリングの浜口京子選手が通っていただき、トップアスリートの酷使される肉体のケアのための施術も行ってきました。
 そう書くと順風満帆と思われるかもしれませんが、教員として自分にできることをと前に出たことで周りから叩かれることもありました。いつも成功してきたわけではありませんでした。
 ただ過去は過去。過去があって今の自分があるとするならば、今の自分の中に過去の経験は生きているはず、ならば今の自分を見れば十分過去を振り返ったことになる。ましてや過去の失敗でくよくよと悩むよりも、今、そして未来について考えた方が良いのではと、私は考えるのです。

 

長谷先生との出会い

 長谷先生と出会ったのはその後でした。当時の私自身の境遇に不満があったとか、そういうネガティブなことはありませんでした。ただ、長谷先生の話を聞いて、その哲学に感銘を受け、柔道整復師の勉強をしていた時代の治療家の言葉とつながりました。「この人の知識と技術、そして哲学をもっと学びたい」そう思ったのです。

 2期生として長谷先生から指導いただけた学部の頃。視野が大きく広がるのを感じました。「一度逃げた症状からは一生追われる」という言葉も教わりました。30の後半を過ぎてから、また新しく技術と知識を学べる毎日。治療家という道は生涯自分の学び続けなくてはいけないのだと強く感じました。

 その後、長谷先生から評価いただけたのか、もっとこちらの道へ来てみないかと誘われました。そのためには教員を辞める必要がありましたが、私はすぐに決心して長谷先生からのお誘いを受けることにしました。教員として学んだことも少なくはありませんが、長谷先生の元で学べることの方がずっと多いと考えたからです。これまで教員であったという過去よりも、これから長谷先生の元で活動する未来の方が治療家大橋一也はもっと遠くまでいけると思ったからです。

 そして、その判断は正しかったと、今でも確信している気持ちに変化はありません。

 

教える側として

「この世の中から難病患者を無くしたい!」治療家なら誰しも一度はそう夢見るのではないでしょうか。私もそうです。長谷先生から教わった治療方法で、癌や潰瘍性大腸炎、小児肺嚢胞といった難病を完治させるために施術を続けてきました。

 難病と呼ばれるものは甘いものではありません。だからこそ難病と呼ばれるのでしょう。これまで手がけた患者さまを一人残らず、その全てを救ってきたとは言いません。力及ばず悔しい想いを抱いたこともあります。ですが、いつだって治療するときは私なら絶対に治せると言い切ります。治療家が治るかもしれないなどと、弱音を吐くべきではない、ましてや患者さまにそう言ってしまうのでは、患者さまの心が難病に負けてしまうキッカケにもなります。患者さまの症状を過去にする、患者さまに病気のない未来を歩ませる。それが本当の治療家だと私は考えます。

 これまで数多くの患者を治療してきました。ですが、それは難病患者の全体数に比べればほんの一摘みにしか過ぎません。私の身体では物理的に、世の中から難病患者を無くすことは不可能…それが事実です。

 ならば長谷先生の治療法、哲学を身につけた治療家が増えればいい。そうすれば難病患者を無くすことが物理的に可能になるはずだ。そう思ったのです。もっともっと治療家が増えれば、一人でも難病患者が少なくなる。

 そう考えて、再び教える側へと私は立つことになりました。もちろん患者の治療も続けながら。やるべきことは多く多忙な日々ですが、この技術と哲学を教えることは治療家業界の為であると、そして難病患者の為であると、そう思っているからです。

 

治療家のみなさんへ

 命とは何か。命を扱う私たちはそのテーマを考えることがあります。泣き叫ぶ生まれたばかりの赤子と静かに余生を送る老人。健康な人間と難病患者。その命はどう違うのか。

 命とは心臓でしょうか?脳でしょうか?いいえ、どれも大切な臓器ですが命そのものではありません。命とは目に見えないもの。ですが、目に見えずともかけがえのない大切なもの。

 私は命とは時間だと考えます。臓器を怪我しても生きている限り時間を使うことができる。ですが死んでしまってはもう時間は使えない。命とはあなたという人間が自由に使える時間なのです。

 治療の技術は常に変革を続けています。むしろ今は変革期にあると言ってもいい。昨日より今日の技術が、今日より明日の技術が。治療家は常に学び続けなくてはなりません。

 命が有限であるならその時間を何に使うのか、命を扱う治療家だからこそ、その価値の貴重さは分かっているはず。

 もし命を、他人の命が蝕まれている方、つまり我々の手を必要としている患者さまのために使うべきだと考えていただける治療家のみなさんにとって、治療のための技術と哲学…長谷ismを学べる学部はきっと、多くの患者さまを救えるようになる。あなたの命の密度をより高めることになるでしょう。

 治療家人生に早い遅いはありません。過ぎ去った時間はもう命ではないのです。これからどう命を使うのか、あなたがそう思ったときが治療家として新しいスタート地点となるのです。

 私たちは、本気でそう思っていただける治療家を、私たちも本気で応え、本気で手助けさせていただきます。

 

経歴

23歳 大学卒業後、カイロプラクティック専門学院入学
27歳 東京柔道整復専門学校入学
30歳 国試合格と同時に東京都豊島区に整骨院を開業
33歳 柔道整復師専科教員免許取得
東京柔道整復専門学校専任教員
おかしく楽しい教員時代と学生時代でした。
http://kyobun.jugem.jp/?eid=338
34歳 整骨院再生転売事業開始
経営コンサルタント
36歳 帝京大学女子柔道部コーチ兼トレーナー

 

現在

・東京都豊島区に整骨院、栃木県下野市に治療院を開設
・コンサルタント
・(一社)日本整体協会 NSTインストラクター
・(一社)日本整体協会 治療家進化塾 講師
・セミナー活動

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